奇跡が起こる時
宇宙は全て法則で構築されています
微細な事から宇宙規模の事まで全て
ミクロからマクロまで
よく似たモノで構成されています
それを「真理」とか「仏」とか
「創造主」とか呼んだりするんですが
こんな書き方すると頭が混乱する人
いらっしゃるかもしれません
三次元に足場を置いて
「見」「思考」すれば
そうなるかもしれませんが
視点は無限にあるんです
全ての視点を仏はお持ちです
幸福の科学の会員には
こうお思いの方
多いんじゃないでしょうか?
仏とは大川降法先生であって
エル・カンターレだ、と
確かにその通りなんですが
それは仏の一面に過ぎません
総裁先生は何度も仰られました
「本来、私は
生まれてならない存在である」
と
総裁先生は人間の肉体を
使用されましたので誰もが
「人間だ」と認識すると思われます
そして
あの世のエル・カンターレは
(この表現の意味分からない人は
幸福の科学の古狸会員に訊くか
書籍を沢山読んで下さい)
人霊でないものの
幸福の科学の映画やマンガで
人霊風に描かれている事から
人霊みたいに認識される方が多い
と推測されます
ですが、どちらも
私達に認識し易い様に
主がそう表現して下さった
だけの話であり
どちらのお姿も
方便に過ぎません
その辺は書籍
悟りの極致とは何か
に詳しく書かれています
いや・・・・チラッと書かれています
「触り」が書かれてます
仏に意思はあるものの
私達、人霊からは
そう見えません
いや、そう見える様に
してくれてはいるんですが
その奥に有るものが
人間からは「法則」にしか
見えないんです
別な視点から表現するなら
「大きな愛」でしかない
ですが、その「大きな愛」すらも
仏の一面に過ぎないんだろうな
と思うんです
人間には理解不能な概念を
無限にお持ちの様に思われます
当たり前だけど
私達には全くの理解不能
どころか
想像すら不可能な御存在です
いや「存在」との表現も
正確ではありません
「存在」とは
世界の「特定の部分」
を指す言葉ですので不正確
仏は「全ての全て」ですので
閑話休題
その「真理」を掴み
自由自在に行使できる状態を
「悟った」と言うんですが
正真正銘の自由自在は創造主のみで
私達人霊は法則の一部で
チョロチョロと遊ぶのが関の山
ではあります
「人」としての存在形態である以上
仕方がない事ですね
さて、その法則
世に言う奇跡も法則通りに思考すれば
誰でも起こせるんですが
その法則がこれまた
言葉では間接的な表現しか出来ず
会得に時間が掛かるもの
だからこそ
「悟るは尊い」とされるんでしょうね
私事ですが
ある事柄について熱心に祈っていた
時期がありました
当時の私には、それが実に
重要であったんです
何日も祈ってたんですが
ある日の事
「貴方の思考が三次元的で
願いを叶えてあげられません
もっと柔軟な思考をして下さい」
こんな内容が
降ろされてきました
人はややもすれば隘路に陥りがち
そう言われてみれば
確かに狭い思考をし続けていました
三次元の、しかも現実に囚われた
狭い思考をしていたんですね
指摘されるまで気付きませんでした
反省・反省
ちなみに
現在は未来ではありません
多くの場合、人は現在が基礎となり
未来が構築される、と考えますが
これは誤りです
いや、正確に言うなら
思考の自由を行使できる人間には
誤りです
思考が自在にコントロール出来るなら
未来は自由自在に変化させられます
これはパラレルワールドにも
関係してくる話なんですが
人間は自由自在なんです
本当は「思考だけ」で
全てがコントロールできます
そんな壮大なラボの様な環境を
主は与えて下さっているんです
何もかも全てを
主は与えて下さっています
その中から
限定したものしか
限定した環境しか
現せずにいるのは
当人の
思考(心)の狭さが原因です
思考(心)の硬直が原因です
自由自在を手に入れるには
真理知識がいくら有ったとしても
ちょっと足りません
思考・熟考による思慧が
瞑想により得られる修慧が
必要です
と言った訳ですので
人生に疲れ希望を失った
そんな方は沢山
いらっしゃるでしょうけど
希望は
幸福の科学を勉強する先に
見えてきますよ
人は仏法真理を学び、探求し
修練し、身に付ける事で
無限に自由となって行くんです
仏は、そんな人間を
優しい優しい眼差しで見つめられ
自分のところまで昇ってくるのを
待って下さっています
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません