「信仰」とは100%を求められる
信仰とは100%を求められる
と言います
どうして100%なんでしょう?
どうして99%では駄目なんでしょう?
100%の信仰とは
どんな状態を指すのでしょう?
「100%の信仰」ではない心とは
一応、信じてはいるものの
仮に信ずる対象に
間違った点を発見してしまった時
信じるに値しない所を見てしまった時
そんな時には一目散に!
信じる心を捨て去れる様
この世的価値観へと逃げ帰れる様
心をスタンバイさせている状態
そんな心を指します
これを別な言い方で表現するならば
「本当は信じてなんかいない」
と言えるかもしれません
厳しい言い方ですか?
では
「信仰心が足らない」
でもいいですよ
これらの心は、直ぐに
安全だと思ってる場所へ非難できる様
三次元的価値観へと一瞬で変化できる様
脱兎の如く逃げ出せる様
足腰に力入れて踏ん張ってる訳です
本当はこの世なんて
盤石なものでも何でもないんですけど
とりあえず今現在まで
生きてこられてる
まともに存在が出来ている
(と思い込んでいる
に過ぎないんですけどね)
だから
「とりあえずは安心」
と考えるんです
100%信じてしまって
もし間違ってたら・・・・・・・・
もう引き返せない・・・・・・・・
それって・・・・魂の終りでしょ?・・・・
そんなの恐ろしくてたまらん・・・・・・
そう考えるみたいです
信仰とは・・・・・・・・・
対象がどんなものなのか
正確には全容が掴めないまま
信じざるを得ない
だって、その神が正しいかどうか?
なんて人間に解る訳がないんですから
信ずる相手と同じレベルにまで
進化しなければ
正確には判定できません
だから
信仰とは一躍跳入しかないんです
だから
信仰とは勇気がいるんです
解らないもの理解できないもの、を
信じきらなくちゃならないから
もし間違った神を信じてしまうと
魂が大きく歪んでしまいますので
皆それを恐れるんですね
魂が、その中心部分である心が
大きく傷付く前に
これからやって来る衝撃を和らげ
傷を小さなものにしよう、との
防衛本能を発動させ
自ら「信じまい」と行動に出る
自分に
何だかんだと噓をつき
信じ切らない様に防衛線を張る
対象に粗を探し
「ほら、やっぱりアレは間違ってた」
と偽りの情報で自分を納得させる
人はそんな風に自己保身をします
簡単に言ってしまうと
「ジャンプが恐くて出来なかった
勇気が出せなかった人」
に過ぎないんですけど
ちなみに
「ココが矛盾してるじゃないか」
とかの理詰めで
幸福の科学を攻撃してくる人
あれ、実は
信じたいのに信じられず
信仰の入口にすら立てない
そんな自分が悲しくて悔しくて
なんとか信仰の道に入りたくて
納得させて欲しくて絡んできてる
もしくは
相手にして欲しくて攻撃してきてる
そんな人達なんです
「ママのバカーッ」と
母親をポカポカ殴る子供みたいですね
他にも
もう自分が信仰出来ない事については
諦めてしまってる、けど
このどうにもやるせない気持ちを
なんとか晴らしたくて
すでに信仰の道に入っている人を
引きずり下ろし
信じられない仲間を増やし
自分の心を癒そうとする
そんな情けない心境に
なっちゃってる人も
けっこういらっしゃいます
これって
地獄の悪魔にそっくり
ちなみに
本物の唯物論や無神論なら
幸福の科学になど
微塵も興味を持ちません
攻撃なんて疲れるだけなんで
そんな事やりません
神なんて、どーでもいいんです
ですので
幸福の科学を攻撃してくる人達は
実のところ
「信仰を持ちたい
だけど、持てずにいる人」
もしくは
「現在の地球で唯一の
正しい信仰を持ちたい
でも持てない自分が悔しい人」
なんですよ
どうか邪険にせず
大切に伝道してあげて下さい
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません