「信仰には試しが入る」だってさ

神への信仰・尊崇

これは我々被創造物である人間には
何よりも重要な能力であり
神々もこれを高めてあげよう、と
日々働きかけて下さっています

ところが、この
神から人間への指導には
時として、人によってはキツイものが
含まれるんですね

「信仰には試しが入る」
と言われるのがソレです
 
 
信仰の道に入った者には
ある時、まるで
「信仰心の試験」を
されてる様な状況が必ず訪れます

人間側から見れば
これが大変な試練であったりして
いたく辛いんですが

仮にコレを俯瞰して見る事が出来れば
全ては「神が人を愛するが故の指導」
であるのを見てとる事ができます

全ては、その人の信仰心を
強化させる為の指導なんですが
信仰心or悟りがイマイチな人は
挫けてしまい
その指導を逆恨みしたりします

「なんで神を信じる者に
こんな苦しみが訪れるんだ!
神とは人を幸福にする
存在じゃないのか!」

そんな狭い考えから神を呪ったりしますが
これなんか正に
「親の心子知らず」ですね
 
 
神とは人間を幸福にする存在

その考え自体は間違っていません

ですが幸福を
「この世の幸福」と見るならば
それは間違いです

神は人間に「本当の幸福」を
与えようとします

本当の幸福とは
「幸せに満たされ感謝の気持ちが
長く強く続く状態」を指します

他にも
「どれだけ魂が進化しようとも
より上位の存在を信じ感謝する状態」
とか

色々な表現は出来ると思いますが

幸福の科学では
「あの世とこの世を貫く幸福」
と表現されてますね
 
 
この世の幸福を人間に与えたとしても
死んでから後、その幸福が
続かない様では意味が無いんです

だから神は、この世的見方しか出来ない
我々人間からは意地悪に見える現象を
数多く起こします

事故も事件も病気も貧困も
ありとあらゆる不幸事は
全て私達人間の悟りの為に
仏が起こすものです

この簡単な事を
常に心に抱き生活するだけで
毎日は感謝と喜びで満たされるはずです
 
 
とは言いつつも
これは中々に難しいものです

今現在お金がサッパリ無い
でも集金はワンサカ来る
とか
交通事故で片足切断した
とか
連れ合いの浮気が発覚した
とか
冤罪で投獄された
とか
暴漢に襲われ大怪我した

とかの状況真っただ中で
そう考えられるのは
かなりの非凡でしょう

ですが事実は事実なんです

私自身、何度も何度も
エル・カンターレに鍛えて頂き
神を呪う所まで行きかけました

あと少しでそうなる所でしたが
お陰様で何とか踏み止まれました
 
 
聖書にも書いてある一文
大川総裁も引用された事があります

神はその人に背負えない荷物は負わせない
とか
神は乗り越えられる試練しか与えない
とかが、それです

これは、何度かの
ドツボから這い上がる体験
プラス
真理が有れば悟れます
(失敗するとヒネクレますが)

どんな苦しみに遭おうとも
これが真実であるのを実感できるまで
仏はエル・カンターレは
私をドツボに突き落として下さいました

ほんっっっっっっとに、辛かった~
 
 
この法話は良いよ
何百回も聞いてね