信仰と検証は似てるかもしれないけど違うモノだよ

最近送られてくるメッセージを読んで
つくづく感じるんですが

真理の探究とは
幸福の科学の教義、または
総裁が仰った内容を疑い
真偽を追求する事ではないんですよ

まず前提として
「全てを信じきる」
こんな精神態度が必要です

総裁先生が嘘を言っているのではないか?
と鵜の目鷹の目で教義を眺める行為は
信仰と、かけ離れたモノで
六大煩悩にも説かれている
「疑」の心に過ぎないんですよ

それを「科学だ」「合理的検証だ」
としか考えられない様では
悲しいかな
決して真実を見る事は無いでしょう

そんな行為が頭の良い行為だ
と思ってるのかもしれませんが
単に、世に沢山いらっしゃる
唯物論者とソックリ同じで
何も悟れず今世が終りますよ

それで良いんでしょうか?

 
 
確かに教義の中には多数の
方便が含まれてはいます

ですが、それらは全て
今いる人々を
後から来る人々を
善導せんが為の方便であり

総裁自身が得する為の
方便ではありません
(そういったモノは方便ではなく
嘘と呼ばれますね)

単刀直入な表現をしても
理解できない人が多数な為
ああいった方便が多用されるんですよ

ですので説かれた方便が
方便だと気付ける人は
精舎研修でも受ければ良いんです

そこでは、その人の悟りに応じた
インスピレーションが降ろされますので
公にされた教義とはかなり異なるモノが
降りてくる人も中にはいます

書籍の内容と極端に違う
インスピレーションを降ろすと
「この内容はオカシイぞ!
悪魔が惑わそうとしてるな!」
と思ってしまう程度の悟りの人には
一般的な内容しか降ろされません

そんな風に、精舎研修とは
霊的には一人一人違う内容で
オーダーメイドと呼んでも差し障り無い
内容となっています
 
 
幸福の科学は宗教ですので
根本の部分に「信じる」行為が
どうしても必要となります

残念ながら
これが唯物的な人々を説得できない
主たる要因ではあるんですが

地球では、そんな風にこの世が
創られている以上、我々は
それに合わせて行くしかないですね

グダグダ文句言っても始まりません
 
 
P.S.
あまりにも残念なメッセージが
多数送られてきますので
メッセージ送信機能は
暫く停止します

「どうか目覚めて下さい」
としか言い様がありません

残念至極です