「依存」と言う名の甘い罠
前回、ある読者の方からの
コメント内の質問に答える形での
記事を書きました
それについて、その方から
再度コメント頂戴したんですが
それを読ませていただいた後
「もう少し一言二言を添えておけば
良かったかな~」
と後悔しました
と言いますのも
前回の記事は
「その方」宛てのものでもある
と同時に
同じ様な悩みをお持ちの方々への
メッセージでもあった訳ですが
その旨、念を押しておくべきだったかな
との後悔です
今回も同じ趣旨ですので
勘違いなさらない様
お願いします
まるで見下しているかの如く
辛辣で冷酷な意味に読める記述が
記事中にあったのは承知していたんですが
あれは
ハッキリ指摘されないと
理解できないタイプの人へ向けの表記です
その手の方向けに
通常、日本人相手ならば
オブラートに包み表現する所を
わざと、ああいった言葉で表現しました
ひょっとして
それでコメント主の方を
傷つけてしまったかもしれません
もしそうならば、お詫び申しあげます
当人は謙遜されていましたが
私はコメント主の方を
未熟者とは思いません
確かに入会間もない方より
キャリアを積んだ会員の方が
会内での知識は多いかもしれません
が
それが即ち、悟りではない
とも言えます
長く会員を続けているからと言って
必ずしも優れたる人格である保証など
どこにも無く
私の悟りとて
大した事無いかもしれません
どんな人であろうとも
(地獄の悪魔であろうとも)
私より悟った部分はあるはずですし
私より悟れていない部分もあるはずです
要は、全ての存在が「発展途上である」
て事で
高級霊とて例外ではありません
宗教的「許し」も
ここから発生するものです
相手が根本仏であれば
許す必要も無いでしょうが
所詮はお互い発展途上にあるもの同士
許し合うしかないじゃありませんか
目糞が鼻糞を笑っても仕方ない訳です
前回の記事で言いたかった事の一つに
依存心は捨てるべき、との考えがあります
特定の「誰か」に「何か」に
依存する、との行為は
なにせ「気が楽」なので
誰もが陥り易い罠ですが
麻薬と同じで
一度ハマッてしまうと抜け出しがたく
しかも、長年に渡って続けてしまうと
かなりマズイ精神構造が出来上がります
人間とは基本的に精神的には
独立独歩でなければなりません
協調性をもって共同作業をこなす能力は
それと全く異なる別な悟りであり
必要なものでありますが
たとえ皆と共同で何かをやっていようとも
それぞれの人は精神的に
独立していなければなりません
(言い方が非常に
マズイのは承知していますが
解り易いのでこう書きますけど)
この「独立心」を損なうと
「一人の人間」と言うより
「飼い犬」「飼い猫」のレベルに
精神が堕してしまいます
依存心の強い人は
自分の幸不幸を他人のせいにします
地獄にいる魂は殆どがそう
確固とした
アイデンティティを築けていない人は
大なり小なり似た傾向にあります
私は依存心が強いがために
不幸になって行く人を
今まで大量に見てきました
女性に高い割合で存在する様に思います
「でも信仰とは
仏神に依存する事ではないのか?」
そう考える方もいらっしゃると思います
確かにそういった部分もあるでしょう
でも100%ではありません
「依存」と「信仰」「素直さ」は
似て非なるものです
独立独歩の信念を持たず信仰する人は
悲しい事ですが
悟りを得るのは難しい
と言えるでしょうね
ディスカッション
コメント一覧
失礼します。御一読をお願いします。
キリスト教は、次世代に伝えてはいけない宗教です。
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題:差別されるサマリア人には何ら悪いところはありません。
…(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
差別は、当然、差別する人が悪い・・差別する側が悪い。
だから、当然のことであるが、差別される人は、何ら、
悪い所はないし、悪いこともない。
キリスト教の聖書には差別の状況が多い・・
差別をする団体や、人は、当然、悪いが・・、
1例として・・、
差別を意識しているが・・、
差別をすることは悪いことだと・・意識をしているから、
差別をしないという人はどうだろうか?
これで、良いと思う人も多いのだろう・・、
そして、もう一つ、考えて戴きたいことは・・、
その差別について、そんなことがあったんだと・・、
差別の存在自体も知らなかったし・・、当然・・、
差別の存在も知らない人なので、・・また当然、
差別をしないという人はどうか?
これが、本当なのではないだろうか?
本来の、一番の・・人は、そんな差別なんて存在してい
たの?・・と、差別そのものの存在も知らなければ・・、
知らないくらいなので、差別観をも持たず・・そして思
わず、・・当然、差別行為もしない・・という人。
イエスと言う人は、この様な人ではなかった・・この一
番の人ではなかった。
イエスが、よく言う言葉・・、
「そんな事、サマリア人だってやるではないか」・・と。
このイエスの言葉は、『差別語』だ、『差別行為』だ。
イエスの言葉として、キリスト教聖書の中の、あちこち
に書かれ・・、そして、世界中に広められ・・、当然、日
本にも知らしめ・・、知れ渡っている。
ある意味、差別観を・・世界中に振りまいているいる行
為であり・・、
知らなくてもよい差別を、差別観を・・作っているとい
う言葉だ。
何も知らなければ・・似た様なこともまた・・差別も起
きないのに・・と思う。
キリスト教聖書は、この点でも・・『悪書』だ。
古くて、知らなくても良い差別観を、じくじくと掘り起
こして・・人に知らしめ・・洗脳する。
特に、キリスト教徒の方々の心に・・植え付けし洗脳(つづく)
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(詳しくは、以下のブログへ)